まず書いてみよう

大学生が日頃の気付き、学びを気軽に綴っていくブログです!

強みってなんだっけ

テーマ

今回は「強み」に関してです。自分の強みは何かと、多くの人が考え、問い続けていることだと思います。最近「強み」に関して、すごく思考停止していたなと感じたことがあったので書いてみます。

結論

この記事で言いたいことは

  • 社会における強みを作ることを考えて自分の経験値を振る
  • 強みは相対的なものであるので、自分が強くあれる環境を選ぶこともできる
  • 個性として強みも相変わらず重要であるから自己分析は怠らない

ということです。まだ自分の中でも「何が言いたいの?」がクリアではありませんが、書き進めていく中で明確にしていきたいと思います。

自分の強みがわからなくなりました

インドネシアに来てから自分の強みが良くわからなくなりました。僕がこれまで強みと考えていたものは、普段自分が所属する組織、居場所の中での強みであって、周囲の環境が変わった時に、自分の強みは強みで無くなる事があるのです。強みは相対的なものだからです。

特に自分は人の感情理解とかコミュニケーションとか、そのへんで力を発揮していたはずなのですが、インドネシアに来てからは、初めて会う人が多いとか、英語で自分の言いたいことが言えないとか相手の言ってることがわからないとか、そういうことが多いです。そうなってくると「あれ、自分の強みってなんだっけな」って思い始めました。

これ以外でもわからなくなっています。今は先輩の元でお手伝いをしています。先輩は営業だったり、開発だったり、デザインだったり、プロジェクトマネジメントだったり、何でもある程度できます。あれそうすると「あれ、自分って何もできなくね?」ってことを改めて自覚します。また先輩の場合、そういったスキルが今の事業を行う上で活きていると言います。つまり何でもある程度できることが強みということです。「え、そしたらオレって強みなくない?」強みって相対的で誰にでもあるものじゃないの。強みってそもそもなんだっけ。

社会で戦うための強みは絶対的でもある

ここでなんとなく気づきます。強みって相対的であるけど、その強みってあくまで「個性」とか「性質」的な話なんだと。パーソナリティに優劣は存在しない。社会における強みは「個性」での話では無く、「持っているスキル・能力」のことなんだと。つまり強みという言葉でも。

スキルや能力には確かに優劣が存在する。社会における強みも相対的なものだと思って、努力を止めてはいけない。みんなが100ある経験値をその中で割り振ってるわけではないんだ。経験値は1にも1000にも100,000にもなる。努力している人は経験値をどんどんと高めている。つまり自分に強みがないという状況も十分にありえるということだ。自分にはまだ経験値が足りていない。

労働市場における強みは「分野」×「分野」

教育改革実践家の藤原和博さんが人材の価値は「分野」×「分野」の掛け算で表せるという話をしていたのを思い出します。持っている分野の専門性をかけ合わせてその人の価値が決まるということです。これを3つの分野で専門家になれば100万人に1人の人材になれるというお話をされていました。

この分野っていうのがつまり社会における強みのことなんだと思います。社会に対して価値を発揮できる領域のこと。これを多く持っていると、その掛け算で価値が上がる。この専門とは営業開発人事など職種的な分野と、学問的な分野、趣味の分野などが考えられます。専門性を持っているということは社会に価値を生み出せるということ。

自分には今専門的な領域がない状態です。強いていうならば、中高6年間投資した卓球ぐらいです。実力的には全国大会には出ていない中級者くらいなので、社会に価値は全く生めていないでしょう。(特にスポーツ・趣味は価値を生むのが難しい領域だと思います。)今後はこういった専門的な分野を獲得していかなければいけない。

選ぶ分野そのものが価値になる場合もある

選ぶ分野には分野そのものに価値があることもあります。例えば日本において人工知能領域の専門家は足りていないと言われます。人工知能の専門家は今や引く手あまたです。(もちろん習得が難しいなどの理由も存在すると思いますが)もし同じ時間を何かのスキル獲得に投資するならば、求められている分野・将来性のある分野に投資したほうが、大きなリターンが返ってくることになります。

つまり自分の限りある時間をどの分野に投資するべきかというのは非常に重要な問です。同じ時間を投資しても、結果社会から求められる度合い・社会に生み出すことのできる価値は変わってきます。

戦う市場を変えるという話

専門性の価値も、評価される市場によって変わってきます。全ての人材が共通の市場で判断されているわけではありません。市場の中での比較の中で自分の強みは変わることになります。例えば、日本で日本語が喋れることは価値になりませんが、海外で日本語が喋れることは、日本語教師や日本語の翻訳家などとして価値を生み出すことが出来ます。日本語を求めている人が海外にいるにもかかわらず、海外には日本語を喋れる人は少ないからです。

パーソナリティも結局重要

最後に個性に戻ってきます。じゃあパーソナリティとしての強みはどうやって扱えば良いのでしょうか。これは投資する専門性を選ぶ1つの基準として扱えばいいと思っています。集中力が高く、何か一つのことに没頭できるのであれば、そういった個性と相性がいい専門性を選べば良いし、マメな人はマメさと相性がいい専門性を選べば良い。

自分の性質と合っていない専門性・分野を選択して失敗するケースも少なくないので、やはり自分のパーソナリティとしての強みを理解することは非常に重要です。

他にも個性としてのコミュニケーションやリーダーシップスタイルに影響を与えると感じます。人と関わる時にどんなコミュニケーションが取れるのか、どのように組織を引っ張れるのかそのスタイルはパーソナリティに由来すると感じます。専門性があっても、コミュニケーションが上手く出来なかったり、リーダーとしてチームを率いることができず、分野が価値につながらないないこともあるように感じます。
社会で価値を発揮する上でコミュニケーションやリーダーシップは欠かせないと思うので、やはり自身のパーソナリティを理解することは重要です。

まとめ

相対的とか絶対的とか難しい言葉を使おうとした結果、言いたいことがよくわからなくなりました。強みと価値って言う言葉も途中からごっちゃになっています。笑

結局言いたかったのは、

  • 社会における強みは自分で作らないといけない
  • 自分の個性や成長分野などを考えて自分の経験値を振る
  • 個性は重要だから自己分析は怠らない
  • 自分の戦う市場を考えることも大事

っていうことでした。自分の強みを身につけるべく、しっかり努力したいと思います。

限界突破を考える

テーマ

前回の更新から一ヶ月以上間が空いてしまいました、、、テスト→出国準備でブログの優先順位が下がってしまいました。知っている方もいるかもしれませんが、現在はインドネシアジャカルタに滞在中で、ジャカジャカする毎日でございます。

今回のテーマは「限界突破」という話です。なんで私がジャカルタに来ることになったのかも交えて書いていきたいと思います。

結論

この投稿では

  • 自分の根幹の部分を変える限界突破は簡単ではないということ
  • 短期的にはどんな理由があろうともやりきること
  • 行動のあとに得たいものが来るということ

ということを言っています。内省メモみたいな側面も強いので、少しよくわからないポイントもあるかもしれませんが、お付き合い頂ければと思います。

なぜインドネシアに来たのか

現在私はインドネシアジャカルタに来て、現地で会社を起こして事業を行われている大学の先輩の元でお手伝いをしています。

そもそもインドネシアへ来た目的は何かというと、

「将来的に自分でビジネスを起こすために、スタートアップを知ること」です。

自分でやろうと思う前に、まず実際にその環境に行ってみようという考えでした。(ここで実際に「自分で会社を起こす」という行動になっていないところにも、この投稿の内容に関係があります。)その他にもビジネスを行うために必要なスキルを得ることや、海外で働くということにも興味がありました。

しかしもう一つ目的があります。それがテーマである「限界突破」です。

今の自分にはスキルなどは無く、身につけるべきものは多くあると思っていますが、それらよりも、そもそも自分には限界突破が必要と感じています。

限界突破とは何か

いや限界突破ってなんやねん!って話です。もっと噛み砕きましょう。

限界突破には2種類あります。

  1. 肉体的限界突破
  2. 精神的限界突破

①肉体的限界突破

これは体力の限界とか体の疲れとか、睡眠とかそういう、本当に越えたら病、死に至るかも知れないやつです。俗にいう「エグる」的な意味での限界突破です。

②精神的限界突破

これは心理的な限界を超えるものです。

例えば

  • 得体の知れない虫を食べる
  • 服を着ないで逆立ちして校庭を一周する

的な「これまで無理だったもの・苦手だったものに挑戦する」「恥を捨てて行動する」ことなど、心の障壁を乗り越えていくことです。上の例は結構極端ですが、嫌いなピーマン食べることも限界突破です。

僕はこの①②の限界突破でも、特に②精神的限界突破が必要だと考えています。人目気にしてできないこととか多くあります。苦手なことも多くあります。①は体調を壊さない程度にします。

なぜ限界突破が必要なのか

私は自分がどういうタイプの人間か良くわかっているつもりです。そこで自分は気付きました。それは「自分は社会に大きな影響を起こせるタイプの人間ではない」というです。

私は何事もぼちぼちできるのですが、裏を返せば何も出来ません。これまで中学高校大学振り返っても、何も圧倒的な成果を残せたことはありません。

大学になってから、社会に影響を生み出している人のお話や本から、その人達の人となりを知るようになりました。僕はそういった影響を生み出す人の特徴を以下のように思っています。

  • 結果を出すことに圧倒的なオーナーシップを持っている
  • 何事にも全力で取り組む
  • 諦めない
  • 強い価値観と独自のこだわりを持っている
  • 絶対的な熱量を持っている

それに対して自分はそういった特徴を持ち合わせていません。

  • 結果と向き合うことから途中で逃げ出す
  • 好きなことにさえ8割ぐらいで取り組む
  • 見込みがなくなったら手を引く
  • 人に迎合する
  • ポジティブな動機ではなく、義務感や責任で動きがち

この中には個性として受け入れてしまえるものもあります。

それに帰納的に考えたところで、自分が成功できないことの証明はできません。

でも結構納得するんです。自分はそういうタイプではないということに。

上で挙げた要素が非常に重要で、結果を残すために必要だということは、学生団体の活動でとても感じていましたし、これ抜きで大きな結果を残すはできないと思います。

まだ自分は全然個性とか割り切っていいほどの努力をしていないという自覚があるのです。この努力こそが本当の意味での限界突破です。そのためにジャカルタに来ました。

なぜ限界突破出来ていないのか

これまで限界突破が出来ていないのは何故なのでしょうか。正直繊細な分析は出来ていません。なんかすごく単純になんですが「気合いが足りていない」んだと思います。

精神論かよwって思いますが、それ以外にしっくり来ません。細かいロジックを組み立てようとしている時点で、限界突破したくないモードに入っています。

その対象に自分の人生をかける気がないから、そんな努力ができないとか言おうと思えば言えると思うんですが、そう言い始めたらいくらでも言い訳できる気がするんです。人生をかけていい感覚なんてそもそも存在するのかも疑わしいですし。

だから結局は

  • 本当は頑張りたくない
  • 人は人、自分は自分でいいと思っている
  • 本当の意味で人を背負っていると感じていない
  • 覚悟が決められない
  • 周りの人々への感謝や責任を感じていない
  • 本気でやって負けたくない/自分の弱さを認めたくない

などが理由で限界を越えられていないのだと思います。

別にそういう人間でいいんじゃないの?とも思うことはあります。

でもそんな自分に鞭打ってでも、良い社会は作りたいんです。自分がこれまでの人生で経験してきたこと、受けてきたこと、見てきたこと、それは美しいし、価値があるし、これからも守られるべきものです。それが失われることを傍観することは自分の思いに反する行動だし、自分自身が奪われることも避けたい。そんな感じで自分の限界をどうにか突破させていきたいです。

これから何をするか

じゃあ結局どうやって限界突破できていない現状を越えていくのか、ということなのですが、中々答えが出ません。結果を出すための細かい方法論は出せるのですが、それは自分の言う「限界突破」とは違う気がするんです。自分の中の限界突破はもっとプロセスの的な、価値観や動機そのものを変革するみたいな話です。

自分の中で最近たどり着いたことが2つあります

①短期的にはどんな理由があろうともやりきること

短期的にはどんな理由があっても頑張らないといけないんです。さすがに10年間やりたくないことに100中100の努力をし続けるみたいなのは難しいと思うんですが、それこそ数ヶ月とか1年とか、それくらいの期間だったら、それを本当にやるべきならば、義務感や責任感100でもやりきなければいけないんです。動機が無いから頑張れないというのは甘え。そもそもやりたいことですら100で頑張ってこれなかっただろ!っていう。

色んな細かい手を使って、仕組み化して、飴とムチして、モチベーション1.0でも何でも良いからとにかく自分をマネジメントする。それをしたいと思います。

まずやり切らないと何も始まらない。

②行動のあとに得たいものが来るということ

だいたい自分の欲しいものは自分がしたくないと思った先にしかないということ。その行動がしたくないからと言って、その行動をしない限り、その先にあるものは一生手にはいらない。また「その先にある得たいものが得られるものが得られるかわからないから」というのもナンセンス。やってみなければわからないし、得られるかどうかは自分の行動次第で決められる。自分が得る気で頑張れば良いだけ。

精神論と言えば精神論ですが、このことを理解しているかどうかが、苦しい時に頑張る理由になります。もちろん方法論でもしっかりカバーしましょう。

まとめ

限界突破は難しいです。ジャカルタに来て2週間弱ですが、限界突破するどころか、思ったより居心地の良いジャカルタに馴染みかけてしまっています。いつも自分は自分の限界の7-8割の運転をしようとしてしまいます。海外滞在では自己管理が非常に重要なので、管理の伴わない限界突破は問題なのですが、今の状態は問題ありです。もっとこの2ヶ月は苦しくあるべき。たった2ヶ月しかありません。この期間さえ頑張りきることができなければ、将来何も出来るはずがありません。頑張りたいと思います。

大きな間違い

テーマ

ここのところバタバタしていて、更新が停滞していました。また再開していきます。

今回は「目標未達成の癖」についてです。

みなさんは何をするときにも目標を立てていますか?1日の仕事を始める時、セミナーを受ける時、勉強をする時、どんなときにも「この時間で何を達成するか」という目標を立てることがあると思います。

つい先日、あるイベントに参加した時に「はっ」としたことがあり、これまでの自分の愚行を反省することになりました。その内容について書いていきます。

結論

この記事で言いたいことは、

  • 立てた以上目標は達成しなければならない
  • 達成するつもりがない目標は初めから立てない(安易に目標を立てない)
  • 目標達成を目指す中で能力がストレッチしていく
  • 目標達成を続けていくことで自分に対する自信を高めていくことができる

ということです。では詳しく書いていきます。

目標を立てる意義

例のごとく目標を立てることとは何なのか考えたいと思います。

僕は目標を立てる意義を以下の3つだと考えています。

  1. 成功・失敗を判断する指標
  2. モチベーションの源泉
  3. 方向性の統一(複数人が同じことに取り組む場合)

まず目標を立てることで、自分がその取り組みで成功したのか失敗したのかを判断することができます。成功・失敗という結果が自分に対してフィードバックされる、かつ客観的に成功・失敗の度合いがわかるので具体的に次の取り組みを変えていくことができます。しかし目標がなければ、成功・失敗が判断できず、次に起こすことが出来る行動が非常に曖昧になってきます。

目標は夢と比べて、より具体的で達成したかどうかの判断が可能であるものです。究極的な夢の実現プロセスから下ろして目標が設定されていれば、目標達成を続けていくことで、着実に夢の実現に近づいて行くことになります。夢が実現する道筋が目標を立てることで見えるのでモチベーションが高まります。モチベーションが高まれば、その場その場の集中力や生産性が高まりやすくなるでしょう。

最後の方向性の統一は、チームで何かをする時に意味を持ちます。チームとして統一された目標を持つことで、個々人で活動することが多い中でも、努力の方向性が分散すること無く、チームとしての力を何に集中するのかが明確になります。

目標未達成に慣れてきた自分

学生団体で3年間活動していた中で、たくさん目標設定をする場面がありました。

チームのリーダーとして1年間の活動目標を立てることもあれば、1時間のセミナーから自分が何を得るかといった細かい目標を立てることもしていました。

僕は投資する時間を可能な限り有効に使いたいと考えるので、なるべくことあるごとに目標を設定していました。この意識自体は間違ってなかったと思います。しかし前提を間違えていたために、この意識がむしろマイナスになってしまいました。

その前提とは「立てた目標は必ず達成しなければいけない」ということです。

目標設定の目的化

自分の誤りは「目的を立てることが目的化し、この時間でできたらいいなと思うことを全て目標にしていた」という点です。

立てる目標は「SMART(Specific, Measurable, Achievable, Related, Time-bound)」を意識するといわれますが、僕はより大事な観点として「その目標を心から達成したい・達成しなければいけないと感じているかを持つべきだと考えます。

目指すつもりのない目標は、もちろん達成できない以上に、目標設定と言う行為に対してマイナスになります。

あまりに軽率に目標を立てていると、自分の目標に対しての信用がなくなります。「目標はなんとしてでも達成しなければ」という意識が、目標未達成を繰り返す中で「目標は達成しなくても問題ない」という意識へと変わっていくことに成ります。

こうなってくると、もう目標はその意義を失います。自分が目標を立てても、それはどうせ達成されないのだから、目標の持つモチベーションの効果は失われます。

本来目標は自分の成長には欠かせないものです。挑戦的な目標に対して、コミットしていくことで自分の能力がストレッチしていく、成長していきます。日々の成長を生み出していくには目標のマネジメントが重要です。この重要な目標が機能しなくなると、何を行っても上手くいくはずはありません。

これは目標未達成の癖です。これから抜け出さない限り、更なる成長はありません。

目標への信頼を取り戻す

癖を抜け出すには「自分の目標に対する信用」を取り戻す必要があります。

これまで書いてきたことそのままですが、方法はシンプルに2つです。

  1. 達成するつもりのない目標は立てない
  2. 立てた目標はなんとしてでも達成する

達成するつもりのない目標は立てない

目標を厳選しましょう。強い必要性を感じている、又は強くやりたいと思うもののみを目標にしましょう。これとこれは必ず達成すると覚悟の決まるものを目標にしましょう。立てる目標には更に「SMART」は意識すると良いのではないかと思います。

立てた目標はなんとしてでも達成する

そして立てたら、どんなに泥臭い手を使っても必ず達成しましょう。人に助けを求める、泥臭い方法を使うなど、かっこよく綺麗に達成する必要はありません。立てた目標を達成することを一番の優先度としましょう。

目標を達成すると自信がつく

目標の達成を続けていくと、誰もが望んでいる「自信」が得られると思います。自分は目標を立てれば必ず達成できるんだ、と。自信がつけば、能力が足りなくて、本来達成できなかったことさえも、達成できるようになると思います。そうすればどんどんと達成することが大きくなっていくという、好循環を作ることが出来ます。

まとめ

自分の良くなかったところをすごく反省しました。

  • 立てた以上目標は達成しなければならない
  • 達成するつもりがない目標は初めから立てない(安易に目標を立てない)
  • 目標達成を目指す中で能力がストレッチしていく
  • 目標達成を続けていくことで自分に対する自信を高めていくことができる

自分もこのことを心に刻んで、目標達成を続けていきます。

「何に生きるか」ではなく「どう生きるか」を問う

テーマ

今回はゆるっと自由に書いていきたいと思います。

最近は「かっこよく生きたい」と思うことが多いです。すっごいシンプルです。

就職活動でこんなこと人事に話したかなと思うと、いや話してないなと思いました。でも小さい頃を振り返ってみると、意外とそういうことずっと思っていたかもしれません。

卓球少年時代

自分は自分がかっこいいと思った人についていこう、この人のように自分もなりたいと努力するのがこれまでの人生だったかなと思います。卓球をやっていた中高生の時代にはたくさんのコーチや顧問の先生の方にお世話になりましたが、コーチの生き方や考え方にはすごく憧れを感じていました。

高校の時に所属していたクラブチームのコーチには「あんまでかすぎる夢見るんじゃねえ。中学から卓球始めたやつなんか、高校でインターハイまで行ければ大成功だよ。だから一生使える卓球を目指せ。そしたら60歳になってもずっと良い卓球していける。卓球を通じて、人間性を高めていってくれよ。」と言葉をかけてもらっていました。

夢を見ることも大事ですが、夢を見ることがその人にとって良いことばかりとは限りません。35年の指導歴を持つそのコーチは数々の全国選手を輩出してきた方です。自身の経験から生徒たちの成長や考え方を見抜き、現実的だけど本当に僕たちのためになる言葉をかけてくれていたのだと思います。

すごく厳しい先生でしたが、こだわりを持ち、70歳を越えても、指導者として卓球を研究し続ける姿をとてもかっこいいと思っていました。

かっこいい人たち

自分の人生の中で、自分がかっこいいと思う人に結構会ってきたと思っています。

生き様レベルでかっこいいと思う人もいますし、一部分をすごくかっこいいと感じることもあります。自分がかっこいいと感じる傾向はこんな感じでした。

  • 自分の利益を捨てて、自分以外の人の利益を尊重できる
  • 人のために人に嫌われることができる
  • 死んでもなお貫きたい自分のこだわりをもっている
  • 謙虚である
  • 常に向上する意志がある
  • 自分の弱さを認め、素直にそれを乗り越えていこうとする

どのへんからそう感じるようになったのでしょうか。

小さい時なんかは北斗の拳をめちゃめちゃ読んで、世紀末の男の生きざまにはとても感化されていたようも思います。マンガ大好きでしたからジャンプ系の熱血漢も好きなんですね。

中高は完全に卓球を教わった先生方の影響です。礼儀や考え方、根性など、ジャンプに根ざす行動を実際にやっていくようになったという感じでしょうか。

大学に入ってからはそれまで比べて多種多様な人に出会うようになったので、この生き方かっこよくないっていう逆の例を得るようになったかもしれません。

それによってさらに自分のかっこいいと思う生き方が強化されていきました。

最近は映画を見たり、小説を読んでいると、やはり上記のような生き方をする登場人物は好きになったり、感動させられたりします。

人生は「領域」×「生き方」

最近ふと人生を2要素で考える切り口を思いつきました。

「領域(何に力を注ぐか)」×「生き方」

です。もう少し噛み砕くと「何に生きるか」×「どう生きるか」です。

最近までしていた就職活動で考えてたのって「自分のやりたいことってなんだろう」っていうことばかりでした。ぶっちゃけ今でもそんなわかっていないです。

やりたいことわからんんn、、、、ってぐるぐるーーー

やりたいことわからない状態での進路選択ってすごく不安になりました。

でもこの「領域」×「生き方」の分け方で考えるとなんか違って見えてきました。

「生き方」が自分には大事

自分の中で強くあるものはほとんどが「生き方」の考え方なんです。人はこうあるべきだ、このような生き方をするのがかっこいい、こういう人生にはしたくない。すべて何に力を注ぐかとか、領域とかには関係なく、「どんなことを大事に生きるのか」っていうところです。

たぶん自分を捧げる表面的な対象(ex. 仕事、学問、研究、遊びetc)はあんま関係ないんだなと思います。熱意の対象結構うつりがちです。

きっと自分の人生における納得度は「どう生きるか」にあるから、「何に生きるか」はそんなに問題では無い気がしているのが最近です。
自分が熱意を向けたい対象はきっと色々とその時々で変わってきます。もしこれに生きたいっていう対象が見つかったとしても、それはまたすぐに変わる可能性があります。
自分のこれまでも
  • 幼稚園児:ガンプラ、積み木
  • 小学生:マンガ執筆
  • 中学高校:卓球
  • 大学:学生団体

こんな感じでしたが、間は本当にスパッと切れてますし、学年とか環境が変わるとやりたいことぱっと変わります。大学入ってから卓球ほとんどやってません。

社会人になってからの熱意を向ける対象は、そのうち時が来れば見つかるかもしれないし、ここで決めなければいけない、という場面が出てくると思います。熱意の対象は移ることができます。でも自分にとっての「かっこいい生き方」はもう変わらないと思うのです。僕にとっては、どういう生き方をするのがかっこいいかのほうがきっと人生には重要です。かっこいい生き方は生きる領域や環境には影響されません。どんな場所でも貫くものが生き方だからです。

人は生き様に心打たれる 

人が心動かされるのは、功績や権威とかではなく、生き様、つまり「どう生きたか」であると思います。人を尊敬する時は、その人の功績のすごさを尊敬するのではなく、そこにいたるまでの過程で、どのように困難を乗り越えてきたか、こだわりを持ち続けて来たのかに尊敬の念を抱きます。

内村鑑三は著書『後世への最大遺物』で、1人の人間が後世に残しうるものは「高尚な生き様」であると言っています。人の生き様は廃れること無く、後世に継がれ、人に影響を与え続けていくものである。僕はこれに非常に共感します。

まとめ

自分にとってより重要なのは「領域(何に力を注ぐか)」よりも「生き方」なのだと思うようになりました。この二種を切り分けて考えることで、自分の考えを明確にし、より自分にとっての豊かな人生を考えるきっかけになると思います。みなさんも「何に生きたいのか」と「どう生きたいのか」に分けて一度考えてみて下さい!

意外に習慣化したという

テーマ

今回はここまで15記事ほどブログを書いてみて思ったことを書いてみます。つまりブログのことをブログにするというメタブログ的な(ry

自分にしては意外に続いていることに驚いています!w

結論

ブログを書いて思ったことは

  • アウトプット先があるので日頃から思考することが増える
  • ブログに言語化する過程でさらに思考が促される
  • 読み手を意識することで本質を明確にすることが求められる

ということです。次に個々に関して見ていきたいと思います。

ブログの目的

そもそもなんのためにブログ書いてたんだっけというと以下のような感じでした。

  • 日頃の思考することの蓄積
  • 言語化による理解の深化

思考を言語化し整理する。そのアウトプットとしてのブログ。なので自分目線でスタートしました。Facebookでシェアすることで、コミットメントとして、継続していこうという思いでした。

ですが、実際に始めて見ると色んな方から「ブログ読んだよ!」と声をかけていただけたり、フィードバックやコメントをくださったりして、ブログはインタラクションな媒体であるのだなと思いました。

そこから

  • 自分が伝えたいことの拡散

なんてことも1つの執筆の目的となってきました。自分視点でスタートしたブログですが、最近は読み手を意識して、インタラクションの媒体としてのブログを目指しています。

ブログを始めて思ったこと

次にブログを始めて、どんな気づきがあったかということを書いていきます。

アウトプット先があるので日頃から思考することが増える

これがすごく大きかったです。インスタをやっていると、色んな景色や場面をインスタ目線で見るようになると同じです(笑)これってブログのテーマになるかも!的なことが勝手に浮かんできたり、ふと見ている光景から「これってこういうことなんじゃないか?」っていう問いが浮かんできます。

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先日、駅のホームから改札階に上がるエスカレーターに乗っていました。エスカレーターの横の壁を見ると「危」という張り紙がしてあります。「なんのこっちゃ?」と思い、ずっと壁を見ていると次の張り紙には「な」。その後も「い」「の」「で」と続く。エスカレーターの後半でその意味に気づく。「危ないので走らないで下さい」ということでした。「いや、エスカレーターの後半で意味がわかっても意味がないやん!もう走り終えてるわ!w」と突っ込みたくなりました。これは不適切なデザインです。

でも世の中って結構こういう不適切なデザインに溢れてるんじゃないかなと思いました。きちっと利用者の目線で考える事って重要なんだなとそんなことを思いました。

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的な感じのことを色んな場面で考えるようになりました。これ面白いかも!なんて目でいろんなこと考えたり、世界を見る目が養われている感覚です。

これも恐らくコメントやフィードバックなど、インタラクションが存在することで投稿意欲が高められていることが影響していると思います。誰にも見られない場では、投稿意欲も上がらないですし、みんなに見てもらえるから養われているのだと思います。

ブログに言語化する過程でさらに思考が促される

ブログを書いてると「この説明微妙じゃないか」「説明できていない気がする」って思うことが度々あります。そうなると再度その事象に対して思考することになります。その結果、「さっきの考え方は間違ってたな」とか「この説明のほうがわかりやすい」ってなることが多いです。

頭の中で考えていたことを文字に起こす過程で、曖昧さが排除されるので、言葉の意味や論理の関係が明確になります。「言語化」を取り扱った回でも書きましたが、やはり頭で考えていることと文字に起こすことは別物です。

ブログに書き起こすことで、さらに自分の思考の引き出しが増えたと感じます。

読み手を意識することで本質を明確にすることが求められる

ブログには書き手と読み手がいます。書き手と読み手の間には情報の非対称性が存在するため、書き手の書いたことがそのままの意味で読み手に伝わるとは限りません。

そのため、自分の伝えたいことを読み手に伝えるには、理解に必要な情報を論理的に組み立てる必要があります。また必要以上の情報を読み手を混乱させるため、簡潔に書くことが重要です。

その過程で、伝えたいことに必要ないことは取り払い「つまり何がいいたいのか?」が絶えず意識されます。そして「それが何の役に立つのか?」ということも求められます。

「モーターって、電流が磁場から受ける力で軸を回転させてるんだよ!」

っていう原理や仕組みを説明しても

「そうなんだ!それで?」

となってしまいます。それにより「じゃあそれを知って次にどんなことができるの?」まで落とすことを意識することになります。しかしなかなかそこまでたどり着かず「このテーマってあんま意味ないかも」って思うことも結構あります。

このようにブログで「So what?(だからなに?)」と問うことで、その情報の価値を考えたり、行動の変化にまで結びつける意識が高まっています。

アウトプットの場を先に用意すること

自分の考えなのですが何かある能力を高めたいのであれば、初めにアウトプットの場を用意するのがいいと思っています。極端に言うと、英語ができるようになりたいなら、文法の勉強を始めるより、まずアメリカに引っ越す的な感じです。

何かの領域に関しての成長って簡単に言うと

「①インプット→②アウトプット→③FB→①インプット→②アウトプット...」

の繰り返しだと思ってます。インプットもアウトプットとして使うことで浸透していきます。逆に言えばアウトプットの場がなければ、インプットにも限界があるのです。

なので鍵はやはりアウトプット。アウトプットの場があれば、インプットする目的やインプットするべき内容が明確になります。そうするとモチベーションも継続するし、理解度も高まりやすいです。何より「やらないと!」感が出ます。

  • リーダーシップを身に着けたいなら、とりあえずリーダーに立候補する
  • 簿記の勉強するなら、参考書買う前に試験に申し込む
  • 株を勉強したいなら、とりあえず株を買う

こんなイメージです。コミットメント効果とも混ざっている気もしますが、、、

とにかく先に「アウトプットの場」を決めてしまえば、インプットが進みます。

まとめ

勢いで始めたブログでしたが、やってみてよかったと思います。皆様からいただくコメントだったりフィードバックがとても励みになっております。これからも書いていきますので、今後ともよろしくお願いいたします。

始めるのすごく簡単だったので、みなさんも是非ブログ書きましょう!笑

今週読んだもの・見たものたち

テーマ

今回は特定のトピックに関して書くというよりは、今週自分が触れたもののに関しての感想をつらつらと書いていきます。インプットしたものへの感情・思考をアウトプットに移し、整理するという目的です。

ハイライト

今週は以下の本・映画を見ました。

個々に感想、思ったことなどを書いていきます。

ニュー・シネマ・パラダイス

▼概要

ニュー・シネマ・パラダイス(伊:Nuovo Cinema Paradiso)』はジュゼッペ・トルナトーレ監督による1988年公開のイタリア映画です。今から30年前の作品で、自分たちの両親世代には非常に有名だと思います。

映画を題材に描かれる愛情友情がテーマです。詳しいストーリーはWikipedia等に載っていますが、ぜひ一度は誰にも見て欲しい作品です。僕にとっては一生心に残る作品だと思います。音楽も本当に素晴らしいです。

▼言語や理性を超越して溢れ出す感情

見た際に、最後のシーンで、とても感動してしまうのですが「なぜ自分がこんなにも感動しているのか」が説明できませんでした。何に自分が感動しているのかわからない。

でもとても泣けてくるのです。この経験を通じて、人間には言語や理性、論理では理解ができないものがあるんだと感じました。ある要素に反応して言語より更に抽象度が高い?深層?で自分の感情が引き出されるのだと思います。

音楽でも同じことなんだろうと思います。音楽は歌を除いて言葉は無く、でも自分たちの心に様々な感情を芽生えさせます。ドレミファソラシドの1音1音では何も感じないのに、それがあるパターンで組み合わせされた時に自分たちの感情が動くというのは一体どういうことなのでしょうか。そのような仕組みを自分たちは言語よりも更に抽象度の高いところで理解する仕組みを持っているということなのかもしれません。恐らくその仕組みは言語化出来ません。

そのへんの領域に他の生物や、機械には変わられない何か人間固有の機能があるのかもしれないと、感動に浸った後に、こんな無機質なこと考えてしまいましたw

虐殺器官

タイトルが非常に物騒ですが『虐殺器官』は伊藤計劃著のSF小説です。今年の2月にアニメ映画としても公開されていました。

▼概要

SFといっても9.11後の世界を舞台にした作品です。9.11後サラエボが核爆弾によって消滅し、それをきっかけに内戦や民族虐殺が後進諸国で激増する。アメリカ情報軍の主人公はその背後にいるとされる1人の米国人を追っていく、という話です。伊藤計劃氏のもう一つの作品『ハーモニー』は、高度な医療が発展し、人間が社会のリソースとして異常なまでに健康・幸福であることを管理された社会が舞台でしたが、この作品は対極のような世界観です。

▼これも言語を越えた何か

※ネタバレを含むのでこれから読む予定の方はご注意下さい。

言語には、文法よりも更に高次の、どんな言語にも共通するようなパターンが存在し、それを発見した男がそのパターンを利用し、人間が過去に持っていた虐殺的機能を引き起こしたというのがこの現象の真相です。

これも上記『ニュー・シネマ・パラダイス』の感想にも被りますが、人間は言語以上よりも高い次元のものを扱っているのだなと思います。チョムスキーのいう「普遍文法」のようなものです。人間の生物的な進化には興味が高まるばかりです。

その他にも

・人間も物質の集合体にすぎないが、人間がそこに意味をもたらす

・どんな戦争も大義の元で行われる

・進化とは環境への適応ではなく、自然淘汰の結果にすぎない

なんてことを考えたり、思ったりしました。世界観暗めですが、人間の本性に迫るような大事なことを書いてあると思いました。『ハーモニー』と一緒に読むことをおすすめします!

人類の未来 - AI、経済、民主主義

▼概要

テクノロジー、政治、経済、物理など、様々な領域の5人の「知の巨人」に今後の社会の変化に対する考えを聞くという本。

▼知の巨人の共通点

5人それぞれが同じトピックに対しても違った見方をしている。この違いは専門性の違いによる視点の違いや自分の拠り所とする価値観・宗教などの違いがあるように思う。(もともともそんなに興味のない領域だから、深く考えずに答えている場合もある)

共通するのはどのような領域にも自分の意見を持つことができ、それに対してそれなりの根拠を持っている。どの人も世界に対して高い好奇心があり、様々な領域の知識をもっている。世界の情勢だけでなく、世界の成り立ちや人間の成り立ちなど、時間軸・空間軸両方に広い理解がある。

やはり専門性は重要であり、深い専門性を持つことで事象の本質を探っていくことが出来る。(観点が専門性によって変わる)

不道徳教育

▼概要

社会的に悪だと見られている、麻薬密売人や闇金融、悪徳警察官などが本当は合理的で、悪どころか社会に貢献している。ウォルター・ブロックがリバタリアンの視点から社会の悪を擁護する。

▼理性と感情のバランスが取れない

麻薬は禁止するのではなく、むしろオープンにすれば良いというリバタリアン自由至上主義者)の主張は、論理的には理解ができるのですが、やはり感情が追いついていかない感覚があります。「本当にそんなことして平気なの?」と。事実マリファナが合法化されているオランダは、マリファナを禁止しているアメリカよりも吸引率が低いという話も聞いたことがありますが、実際本当にそうなるのでしょうか。。。怖い。

読んだ印象としては中途半端に政府が関与したりすると、逆に市場原理に歪みが出て、そういった社会にマイナスが生まれてくるという印象です。やるなら振り切ってしまえばいいのでしょうか。

リバタリアンの考え方はこの本で掴めた感じがするので、今度は逆にそういった考え方を否定する主義主張にも触れてみたいと思います。

まとめ

今回は今週読んだもの見たものの感想まとめでした。何かインプットしたらそのままにせず、きちんと思ったことをまとめる癖をつけるのは重要だなと思いました。

 

「自責」をポジティブに捉える

テーマ

今回は「自責」とは何か、をテーマに書いていきたいと思います。大学まで自責なんて言葉、使うことはありませんでしたが、その重要性は集団活動をする上でひしひしと実感しました。

結論

この記事でいいたいことは、

  • 何事も「自責」の観点で振り返る
  • 「自分に何ができたか」とポジティブに捉えることが大事
  • 当事者意識を持てる範囲の広さは自分につながる

ということです。まずは自責とは何かを見ていきたいと思います。

自責とは何か

自責は文字通り「自分を責めること」です。別の言い方では「自分に責任があると考えること」になります。
何か失敗した時には、どこかに原因があり、その原因を帰着させる対象が誰なのかというのを考えた時、対象が自分の場合が「自責」、自分以外の場合が「他責」です。
自責を「自分を責める」ことと考えると、結構ネガティブでつらいもののイメージになりますが、自分は自責をそんな重いものと捉える必要は無いと思います。(失敗を軽く捉えていいということではない)
自責とは「自分には何ができるか/できたか」を考えることです。何かの結果が出た時に「自分はこの対象に対して100%やりきれたのか?」「これ以上やれる余地はなかったのか?」という問いを立てることが自責だと思います。
自責と同じような言葉に「主語を自分にする」というものがあります。どちらも自分視点で結果を反省をするということです。
高いレベルの問題に対して自責で考えることができるようになれば、自分の行動も高い次元で変わっていきます。取り組む問題のレベルが高いほど、自分の能力がそれだけストレッチされます。難しい問題、大きな問題ほど自責で考えられることが重要でしょう。

なぜ自責にしなければならないか

自責にする理由は、更に高い結果を出せるようになるためです。これにはひっくり返した問いとして「なぜ他責ではいけないのか」を先に考えるといいでしょう。
 
「あいつがあの場面でああいうことをしなければ、、、」
「うちの会社はそういう場所だから、、、」
 
こういうことを言いたくなることあると思います。これが他責の例です。自分以外の他者や環境に責任を押し付けるものです。
根源的には人間は自分に責任を感じたくないものだと思います。責任を感じるということは、負担がかかるものです。他責にすれば自分はその負担をしなくてすみます。
しかしその半面、他責にした時点で自分の思考や行動は停止します。つまり何も変わらないのです。一時的な心の負担から開放されるだけであって、問題の根幹は何も解決されず、いずれ同様の失敗を犯します。
人間は自分を通じてでしか、他人や環境を変えることはできません。本当に失敗の原因が自分以外の誰かや、環境にあるのだとしても、他責にするだけでは何も状況は変えられません。自分を通じて、その人や環境を変えていかなければ同じ失敗が繰り返されるだけです。
自責にすることで初めて、自分が何をするべきだったのか、次に自分の行動をどう変えるべきなのかを考えることができます。そしてそれを行動に移した結果、問題が解決されていくようになるのです。

行動を変えるまでが重要

自責で物事を考えるだけでなく、考えた結果を行動に移すまでをしなければいけません。自分の行動が変わることこそが重要であり、それゆえ難しいものであります。自責で自分変えるべき行動はわかっているが、心では責任を感じていない場合などは難しいです。自分の行動を変えるべき動機が感情的に持てないからです。また行動を変えていく際には、自分のやったことのないことに挑戦することになります。
自責で行動を変え続けていくことは難しいですが、しかし行動が変わらない限り、問題の状況は変わることはありません。小さな行動から始めて、手応えを得ながら、徐々に大きな行動に移していくのは良いやり方かもしれません。
ここではどのように自分を変える行動を取るかは述べられませんが、自責で考えるだけでなく、行動を変えるまでが重要ということを理解していただきたいです。

当事者意識について

自責に似た言葉に「当事者意識」という言葉があります。60%ぐらい意味が重なっていると思いますが、ニュアンスの違いを上手く説明できませんw
当事者意識を高く持つことは重要です。広く物事を自分のことと捉えられることは自分の行動の変化を促します。当事者意識は「範囲」という言葉と相性がいいと思います。どこまでの範囲を自分のこととして捉えられるか、という考え方です。
自分に直接的に関係のないような地球規模の問題に対しても自分に関わりのあることだと考え(当事者意識を持ち)、自分に何ができるか/できたかを考える(自責で考える)のが大事です。広い範囲を自責で捉えられるようには高い当事者意識が必要になります。どちらの言葉にも共通するのは、しっかりと「自分」を主体として捉えることです。

まとめ

今回は自責をテーマに書きました。再度結論を繰り返すと
  • 何事も「自責」の観点で振り返る
  • 「自分に何ができたか」とポジティブに捉えることが大事
  • 当事者意識を持てる範囲の広さは自分につながる
 となります。自分をどれだけ変えられたかが、自ずと結果に反映されると思うので、ポジティブに自責の考え方をし、次の自分の行動をより良くしていきましょう!